歴史

下田、黒船で密航を企てた吉田松陰はペリー提督に拒否された?!その後松下村塾で弟子に講義!!

投稿日:2016年11月17日 更新日:

吉田松陰(よしだしょういん)は天保元年(1830)松本に生まれました。幕末、吉田松陰は黒船来航のとき密かに渡米しようとして失敗した話は有名ですが、どんな人だったのでしょうか?

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吉田松陰の像。正座をして書物を持っています。 どんな境遇のときでも、本を読んで勉強をしていた姿が印象的です。 本当に偉い、強い、賢い!!

思想家で、且つ松下村塾(しょうかそんじゅく)を主催して維新の俊傑たちをそだてた吉田松蔭。頭が良すぎたのでしょうか?彼は羨ましいくらいの実行派ですが、私には理解できないこともあります。

こんなにも学習意欲があって、世の中のことを考えているのに、なぜ29才という若さで死ななくてはならなかったのでしょうか?いくらこの時代、人生50年といえども29才なら半ば過ぎ、早すぎます。松蔭はまだまだやるべきことが残っていると。さぞかし無念だったでしょう。

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松蔭の脱藩騒ぎ

22才で東北へ旅行に行く時、なかなか手続きが進まない長州藩の通行手形にヤキモキして、なんと死罪覚悟で亡命(脱藩)してしまったのです。

一緒に旅する友人宮部鼎蔵(みやべていぞう)との約束を守るためとは言え、随分思い切った行動を取る方ですよね。二人は東北地方での海からの攻撃に対して国土を守るために調査をしたかったらしいです。

このことから外国から日本の国を守るという意識が彼の中に強くあったことが伺えられます。22才という年で自分のことだけでなく、さらに、自分の生まれ故郷のことだけでなく、日本の国のことを考えて生きている彼の姿に驚きと尊敬の気持ちでいっぱいです。

私は22才のころ、遊ぶことと洋服を買うことしか考えていませんでした。ごめんなさい。m(_ _)m 国の心配はともかく、自分の心配をしたほうが良かったですね!

松蔭は脱藩のため一度投獄されたけど出られました。よかったです。生きていればこそ、また挑戦できます!

黒船来航と渡米計画と失敗

23才のときペリーの乗った黒船が日本に来ます。吉田松蔭と金子重輔は下田の弁天島から小舟で漕ぎ出し、ペリー提督の旗艦ポウハタン号に乗り込もうとしました。

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弁天島です。

ここに松蔭と金子が小舟を漕いで黒船に向かうところの絵があります。こんなに小さな船を必死で漕いで行ったのですね。波が荒くて辿り着く前に転覆してしまったかもしれないと思うと、やはり、命がけの密航だったのです。

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弁天島からみた景色。

松蔭が密航を果たそうとした日も同じ景色をみたのでしょうか?記録によれば、もっと海は荒れていたそうです。ここから黒船目指して漕いで、アメリカへ渡ろうと試みたなんて本当に勇敢な人です。

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三島神社にある吉田松蔭の像。海の方を睨んでいます。

海の向こうを睨んで見つめています。外国に負けないために海外で学びたい気持ちでしょうか。

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弁天島から1、2分のところにある三島神社。神社の前に大きな吉田松陰の像があります。

しかしペリーからは断固として拒否されました。ふたりがどんなに「アメリカへ渡って勉強したい。知識を広げたい。」と懇願しても、「このまま日本に残ったら罪を犯したのだから生きてはいられない。」などと情に訴えても無駄でした。

日本政府と交渉しているのだから、日本政府を余計なことで刺激したくなかったのでしょう。いろいろなしがらみや関係があってそう簡単にはアメリカへ連れて行くわけにはいかなかったと考えられます。

ちなみに二人はこの時使った小舟を盗んだそうです。準備不足ではないかしら?と思っていたら、実は松蔭はペリーに手紙を出していて、黒船の方から小舟で迎えに来てくれるように頼んでいたのです。

それでは、訴えに行くのに、迎えに来てくれとはちょっと大胆すぎますね。やはり準備不足でしょう。

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吉田松陰と金子重輔の像です。 指を指している方が偉そうなので松蔭だと思います。 右が金子で、ふたりとも遠くをみています。黒船を指差しているのだと思います。

当時、松蔭と重輔が下田に来て最初に泊まった宿は岡村屋です。岡村屋はその後下田屋旅館となり、今は閉館しています。

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この宿は下田駅から4、5分のまいまい通りに現在も残っています。

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宿の玄関右横に「吉田松陰投宿の跡」が建っています。

密航しようとしたため自首して捕らえられ、拘禁された場所は宝光院長命寺です。今はその跡地に下田市中央公民館が建っています。

なんで自首したのでしょう?ペリー提督には連れて行ってはもらえなかったけれど、アメリカ側から咎められたわけではないのだし、黙っていれば良かったのに。黙って逃げれば良いのではないか、と思っていました。松蔭は他のお世話になった人に迷惑をかけないために自首したようです。

密航に失敗したからには犯罪者として自首するという行動を取る松蔭は、これと決めたら一本道で突き進む情熱家だけど、一方で規則を破った罪を認める潔い男だと思います。白黒をはっきりさせたい人なのだと推測します。

最初は自首をする必要はないと思いましたが、今は罪を認めるその潔さに惹かれます。

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拘禁の跡。

当時は拘留所でここでいろいろと役人に質問されたあと牢獄へ入ることとなります。今は町内にある中央公民館です。

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開国博物館です。

入館したけれど、写真は禁止でした。 松蔭の牢獄の様子が人形で再現されていました。とても狭いスペースで正座して本を読んでいました。木の格子の中の松蔭は落ち着いていた様子でした。牢獄で本を読んでいるなんて勉強熱心です。

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第二駐車場に「平滑牢獄跡」と表示してありました。今は面影がないので、この表示がなければ全くわかりません。

そして当時の平滑牢獄(ひらなめろうごく)はここです。中央公民館のすぐそばです。現在は開国博物館の第2駐車場です。

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ここが第二駐車場です。

現在は駐車場になっているところが松蔭がいれられた牢屋だと思うと、なんだか歴史をどんどん忘れて人びとが暮らしていくのを感じました。

自分の人生よりも日本の国のためを思って行動していた歴史上の人物が若くして亡くなっているのですね。とてもしんみりした気持ちになります。

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ペリー提督の二人に対する感想

ペリー提督は二人に対する感想を次のように言っています。「二人は旅で疲れて見えたし、着物もくたびれていたけれど、紳士だとわかった。彼らは教養を身につけており流暢に優雅に漢文を書いた。

動作は礼儀正しく、洗練されていた。日本人をアメリカへ同行させたいのはやまやまであるが、連れて行くわけにはいかないので残念に思う。」とペリー日本遠征記に記しています。

「流暢に優雅に漢文を書いた。」とペリー提督は言っているところにびっくりです。ペリー提督は、しっかりとした通訳を連れていたのですね。ペリーはこの犯行にたいして刑罰を軽くして欲しいと願いました。

ペリーは厳しい国法を犯してまで、知識を増やすために命をかけた日本の若者に興味を持ちました。松蔭と金子の二人の中に好奇心旺盛な日本人、貪欲な知識欲をみてとり、この国の将来性のある希望を読み取ったのです。

ペリー提督はさすがに本質を見抜いています。ふたりのことをこれだけ充分理解した上で、乗船を拒否したのです。これは私が思うに、このとき日本政府との微妙な関係もあったでしょうし、勝手に2人を乗船させて、国対国の交渉に差し支えがあってはならないからでしょう。

個人的にはペリー提督はふたりを乗せてあげたかった訳ですし、祖国アメリカのために自分の立場を考えて苦渋の選択をしたのでしょう。そう考えると、最初はペリーのことをなんて冷酷な人だろうと思ってがっかりしたけれど、それは私の早とちりでした。

松下村塾での松蔭の講義

松蔭は下田の平滑牢獄から天城を越えて江戸伝馬町の牢屋に移されました。牢屋を移されるのに天城越えまでしなければならないなんて本当に大変です。その後萩へ送還され、野山獄へ入れられました。今の東京から山口県まで移動するという長い旅ですね。

その獄中で松蔭は「孟子」の講義をはじめました。その後に松蔭は松下村塾で教え始めます。ところが、松蔭は老中暗殺計画を口にしてしまい、それが原因で死罪となってしまいました。松蔭29才でした。

近辺の見どころ

吉田松蔭が蓮台寺温泉に入って湯治をしていたと言われています。密航を企てる前に吉田松蔭が泊まっていた場所も中へ入って見ることが出来ます。記事はこちらを御覧ください。

まとめ

  1. 下田にペリー来航のときに命がけで密航を企てるも拒否された。
  2. 罪に問われたが、松下村塾で孟子の教えを説き、門人も増えていった。
  3. 老中暗殺計画を口にするようになり捕らえられてしまう。
  4. その後、処刑された。

吉田松蔭は頭脳明晰で、言行一致。破れかぶれのところがあります。白黒をはっきりさせなくては気がすまないような人だったのだと思います。

用意周到というよりも一か八かのような行動もとっています。それでも自分の頭で考えたことを信じて貫き通すところが立派です。29才の若さで死ぬには本当に惜しい人でした。

アメリカからみた松蔭像は変わらないけれど、日本の世間の松蔭を見る目は時代に寄って変転しているようです。

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